遠州大念仏
これがお手元に届く頃には、七月のお盆も終わっていますが、私が住んでいる地域(浜北区です)ではこの時期に、遠州大念仏が行われます。今年から私もその中で「太鼓切り」(体力的に一番大変な役)をすることになったので、これについて少し調べてみました。
◇時は一五七二年◇
三方ヶ原の合戦で武田軍に敗れた徳川家康が、命からがら浜松城まで逃げ帰ったあと、武田軍に一矢報いようと、犀ヶ崖に橋に見せかけた布を渡し、勝利の余韻に浸っている武田軍に夜襲をかけました。これにより多くの武田軍の兵が崖の下へ転落して命を落とすこととなりました。
しかしその後、夜な夜な崖の下からうめき声が聞こえたり、病人が続出したり、害虫が大量に発生したりしたため、崖の下で亡くなった兵士の祟りでは、と人々は大騒ぎしました。
そこで家康が、お坊さんを呼んで念仏供養をさせたところその様なことが無くなったため、もともと信心深かった家康は、以後毎年、念仏供養をすることをそのお坊さんに命じました。
そしてそのお坊さんから踊り念仏の手ほどきを受けた人たちがそれぞれの地域に帰って広めたことが遠州大念仏のそもそもの始まり、とのことでした。きっかけはお盆とは関係がなかったのですね。
◇各地の地名の由来◇
上記の「橋に見せかけた布」が現在の「布橋」の地名の由来だそうです。
ほかにも、命からがら逃げ帰る途中、どうしてもお腹がすいた家康が途中の茶屋で食べたものが小豆餅だったことが「小豆餅」の地名の由来で、武田軍の追っ手が来たためお金を払わずに走りだしたところ、あわてて追いかけてきた茶屋のお婆さんにお金を払った場所が「銭取(ぜにとり)」(和合町交差点の近くのバス停の名前として残っています)の由来だそうです。
◇無形民俗文化財◇
この遠州大念仏は浜松市の無形民俗文化財に指定されています。
私はこの辺りの生まれではないのですが、こうしてこのようなものに参加していると、少し地域に溶け込めたような気がしてうれしいです。(三十代の文科系人間には体力的に非常につらいものもありますが)
今回の文章の作成については、いくつかのホームページを参考にさせていただきました。そうやって調べる中では、今回書ききれなかったエピソードが他にもたくさんありました。
自分の住む地域の歴史を知ると、違った見方ができるようになり、これもまた面白いですね。









